邂逅山 金龍寺(こんりゅうじ)跡
金龍寺は邂逅山(たまさかやま)と号して天台宗に属し、ご本尊は普賢菩薩でした。
790年(延暦9年)安部是雄による創建と伝えられ、当初は安満寺(あまでら)と称していました。最盛期には19の坊舎があり、天皇の行幸があるなどの巨刹でした。
戦国時代、1573~1592(天正年間)に高山右近の兵火にあって焼失しましたが、1602年(慶長7年)に豊臣秀頼によって再興され、その頃には寺領30石クラスの寺として門前村が形成され、巡拝や遊山でも浄財を集め大いに栄えたといいます。江戸時代には、桜の名所であり、また松茸狩りの絶好の場所として知られていました。
明治時代の廃仏毀釈により寺は荒廃し、「桜博士」といわれた植物学者の笹部新太郎氏が調査に訪れた昭和13年には、老僧が一人雨漏りのする本堂で、電気も水道も無い暮らしをしていて江戸時代の面影はありませんでした。桜を愛する笹部氏は往時を思い、無駄になるだろうことは承知の上で、翌年トラック一杯分の山桜の苗を植えました。「奇特なことで…これで西行はんも能因はんも喜びまっしゃろ」という老僧の声を背にした後、太平洋戦争、戦後の混乱等で再訪する機会はありませんでした。
その後、この老僧の後は続かなかったようで、寺籍は岐阜に移され金龍寺は廃寺となりました。1983年(昭和58年)、寺の本堂はハイカーの火の不始末により焼失してしまいました。
【二丁】
金龍寺本道への丁石は、一丁から十三丁までの13基あったと考えられていますが、一丁と三丁が現存せず、現在は11基になっています。
【四丁】
【五丁】
【六丁】
【三好大明神】
【七丁】
【八丁】
【白馬石】
【九丁】
【十丁】
【十一丁】
【十二丁】
【座禅石】
【十三丁】
十三は十三仏の信仰に合わせたもので、丁石は死後の極楽往生を願って立てられたものです。上部には梵字が刻まれており、十三仏のそれぞれの如来・菩薩を表しています。
【本堂跡】
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