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「アラビヤン焼そば」は“不思議な位おいしく出来ます”をキャッチコピーに1967年(昭和42年)に発売した袋めんの焼そばです。その斬新なネーミングとデザインから現在“知る人ぞ知るインスタント焼そば”として話題の商品となっています。今回この商品を大判カップ焼そばで再現、ユニークな袋めん焼そばを誕生45周年の記念商品としました。 オニオン、トマト、人参の野菜のうまみと酸味のきいたウスターソースをベースに唐辛子や白胡椒の香辛料を配合したスパイシーなソース。このソースにもちもちとした中細麺がよく合います。具材のシャキシャキとしたキャベツの食感、肉そぼろのうまみが食欲をそそり、別添ふりかけの青のりが味と香りを引き立てます。
最高の逸品です。これは旨い!!!
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2004年11月7日、わが家の次男くんが鹿が見たいと言うので奈良公園へ。その時に拾ったどんぐりを植木鉢に植えてみると・・・
あれから8年、なんと花が咲きました(^-^)/
(ネットで色々調べてみると、花は春に咲きこの時期はどんぐりの赤ちゃんが育つ時期のようです。)
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奥の院参道に沿って並ぶ石塔の数は10万基とも20万基とも言われ、皇族から名もない人々まで、あらゆる階層の人々が競ってここに墓碑を建立しました。日本古来の信仰では、山中は「他界」で、死後の魂の行くところでした。高野山周辺には、人が死ぬとその人の頭髪を奥の院に納める「骨上せ」(こつのぼせ)という風習があります。こうした古来の山岳信仰に、弘法大師の永眠する土地に墓碑を建てたいという人々の願いが加わって、この石塔群が形成されたものと思われます。
【奥州 仙台 伊達家墓所】
【薩摩 島津家墓所】
【山口 毛利家墓所】
【武田信玄・勝頼墓所】
【伊達正宗墓所】
【石田三成墓所】
【豊臣家墓所】
【織田信長墓所】
寺院群の東端にある一の橋から二の橋を経て御廟橋を渡ると空海入定(にゅうじょう)の地とされる奥の院です。一番奥には空海が今も瞑想されている御廟があり、その手前には信者が供えた無数の灯明がゆらめく燈篭堂があります。空海は62歳の時、座禅を組み、手には大日如来の印を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、今も高野山奥の院で生きていると信じている人もいるそうです。「死去」「入寂」「寂滅」などといわず「入定」というのはそのためでだそうです。
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高野山内の西寄り、金堂、根本大塔、西塔、御影堂などの立ち並ぶ画で、総本山金剛峯寺が管理しています。ここは、空海が在世中に堂宇を営んだところで、現在の諸堂塔は大部分が江戸時代後期から昭和時代の再建ですが、真言密教の道場としての高野山の中核となる部分です。
【東塔】
1984年に再建されました。
【根本大塔】
金堂の右後方にある多宝塔(1階平面が方形、2階平面が円形の二重塔)。1937年(昭和12年)、空海入定1,100年を記念して再建したもので、鉄筋コンクリート造です。内部には中央に胎蔵界大日如来像、その四方に金剛界四仏が安置されています。
塔内の柱などに描かれた仏画は堂本印象の筆です。本来別々の密教経典に説かれている「胎蔵界」の仏像と「金剛界」の仏像を一緒に安置するのは異例ですが、これは、両者は根本的には1つだという、空海の思想を表したものといい、「根本大塔」という建物名もこれに由来するといいます。
【金堂】
昭和元年(1926年)に焼失後、昭和7年(1932年)に再建された鉄筋コンクリート造の建築で、屋根は入母屋造です。本尊阿閦如来(あしゅくにょらい)像は高村光雲の作。1926年の焼失時、堂内には旧本尊阿閦如来像(薬師如来と同体ともいう)を始め7体の仏像が安置されていましたが、堂と共に焼失しました。旧本尊像は公開されたことのない秘仏であったため、写真も残されておらず、どのような像であったかは永遠に不明となりました。
【六角経蔵】
別名荒川経蔵。1933年に建立されました。
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金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある高野山真言宗総本山の寺院です。
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置し、100ヶ寺以上の寺院が密集する、日本では他に例を見ない宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めています。2004年7月、ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。(Wikipediaより)
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高槻市立埋蔵文化財調査センターは、市内の埋蔵文化財を調査・研究す、出土遺物等を整理・保存する施設です。眼下に三島地方を見下ろす南平台丘陵にあり、専門の調査機関として昭和50年(1975)10月に開館しました。
ロビーで貴重な文化財の一部を展示しているほか、前庭では竪穴式住居や塚脇古墳群から移築復元した横穴式石室などが公開されています。
【弥生時代の復元住居】
弥生時代の住居は、地面を掘りくぼめて床を作り、上に屋根をかけた竪穴住居といわれるものです。
この住居は、芝谷遺跡でみつかった2世紀頃の竪穴住居を復元したものです。
【横穴式石室】
横穴式石室は、外部に通じる出入り口をそなえた石室で、古墳時代後期の一般的な埋葬施設です。この石室は、塚脇古墳群から昭和52年に移築復元されたものです。
【塚脇D1古墳】
塚脇地区の最奥部にある帯仕山の山頂付近に作られた一辺約5メートルの小さな方墳で、墓室は小型の横穴式石室で、わざわざ芥川から運び上げられた河原石を用いて組み上げられています。
【石仏と五輪塔】
岡本地区の丘陵南麓に展開する岡本山古墳群は、古代から中・近世にわたる三島地域最大級の墓地で、出土した室町~江戸時代にかけての多数の石仏と五輪塔は、死者への供養や墓標として立てられました。
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京都大学大学院農学研究科附属農場(京大農場)は、大正13年農学部の創設にともなって北部キャンパスの農学部構内に開設され、その後変遷を重ねて現在は高槻市八丁畷町の本場、古曽部町の古曽部温室および農学部構内の京都農場から構成されています。
昭和3年(1928)に開設された農場は本館、別館(技官室)、実験棟から構成され、本館は1929年頃に建築された木造の建物で西欧的な景観を生み出しています。
開設した当時はこの地を大阪府三島郡磐手村大字安満といい、純然たる農村地帯で周辺には、紀元後3世紀頃に築造されたと思われる安満宮山古墳があり、その南側には当時の村落の跡が広がっていました。
村落の跡は農場の敷地のかなりの部分を占めていて、農場開設当時に遺跡の調査が行われ、安満遺跡での村人の生活の様子や当時からすでに稲作が行われていたこと等も判明しました
平成24年7月30日、高槻市と京都大学、独立行政法人都市再生機構の3者により、同農場の移転並びに農場の跡地における事業に関する基本事項を定めた「京都大学大学院農学研究科附属農場の移転等に係る基本協定書」が締結されました。(2016年春に京都府木津川市へ移転するそうです)
その跡地は「(仮称)安満遺跡芝生公園」として、弥生時代の安満遺跡を保存・継承し、防災機能を備えた、緑豊かな公園に整備されるそうです。
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■会場:高槻市立しろあと歴史館 企画展示室
■開館時間:午前10時~午後5時
■休館日:月曜日(祝日の場合は開館)、祝日の翌日
■観覧料:無料
江戸時代の高槻の古地図を中心に、古文書など関連資料が展示されていて、昔の高槻の風景や地域の特徴を知ることができます。
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