神南備の森跡(かんなびのもりあと)
この辺りから北は、地名を「神内」(こうない)といい、古代和歌に詠まれた「神南備の森」がこの地にあり、神南備の音が、年月の経過とともに変化したといわれます。
「かんなび」とは、神の宿る所との意味で、和銅4年(711)設置とされる山陽道の官駅・大原駅があったと推定され、平安時代には、京から西国に下る人々の別離の地であったといいます。
古今集の歌人、源実は、その前書きで「神なひの森まで送りに・・・別れ惜しみけるに・・・」と記し、別離の様子を「人やりの道ならなくに大方は、行き鬱しと言いていざ帰りなん」(巻第八)と詠んでいます。
南北時代には、幾度となく戦の舞台となったこの一帯も、近世になると、西国街道は山崎通として整備され、梶原には一里塚や旅籠、茶店が設けられて、多くの人が行き交いました。
しかし、明治9年(1876)の東海道本線開通に伴う鉄道敷設工事で「森」は姿を消し、今は、上牧町二丁目の春日神社に合祀された神南備神社の名に、当時を偲ぶほかありません。
このトンネルの基礎部分には高槻城の石垣が使われています。
| 固定リンク
コメント