石川年足(いしかわのとしたり)の墓
奈良時代中頃、石川年足は藤原仲麻呂のもとで出世し、天平宝字4年(760)に御史大夫に任じられましたが、2年後、天平宝字6年(762年)9月1日に平城宮の邸宅で75歳の生涯を終えました。亡骸は、その年の12月1日に彼の出身地である摂津国嶋上郡白髪郷(現在の高槻市真上町)に葬られました。
そのお墓は、江戸時代後期の文政3年(1820)に発見されました。発見のきっかけは、摂津国嶋上郡真上郷光徳村の荒神山の地主であり村の庄屋さんが正月に山の南斜面荒神松の辺りの土が崩れた夢を見たため、行ってみると荒神松の下側の土砂が数センチばかり窪んでいたので掘り起こしてみると、木炭で囲われた木箱(檜製櫃)があり、なかに埋葬された人物について記した金銅板製の「墓誌」と人骨が納めてあったと伝えられています。
荒神松の辺りには年足神社も建立されました。竹藪の中の小さな祠ですが、今も垣内の人達によって祀られているそうです。
奈良時代の書体と彫刻技術、さらには当時の貴族や高級官僚たちの墓制をうかがうことができる「石川年足墓誌」は、昭和27年(1952)に指定された高槻で唯一の国宝です。
| 固定リンク
コメント