
明治19年から20余年間、西面の米は当時の標準米として大阪の堂島米穀取引所へ出し続けられました。その立役者だったのが中田屋治兵衛。彼は生産者としては儲からない標準米を確保するのに苦労していた取引所に自ら申し出て標準米を出し続けました。

西面はもともと米どころではありましたが彼の統率により、この辺りは標準米の産地としての誇りを与えられました。当時の米相場に影の苦労をされていたのが語られています。

この碑は堂島米穀取引所から贈られたもので彼の功績に感謝し、謝意が刻み込まれた紀功碑が今も西面の旧街道沿いの東仙寺の北側に建てられています。
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