史跡 城山城跡 (しろやまじょうあと)
芥川山城(あくたがわやまじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった城で、飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城です。
お城への登り道は、「高槻黄金の里老人ホーム」の西側の道を100Mほど進み、「三好山へ 40分」の案内板が目印です。
初代城主は能勢頼則でしたが、永正3年(1516年)8月に没し、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になりました。天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元が軍勢を引き連れて芥川山城に入城しました。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていきました。
その後、細川晴元と三好長慶の間で確執が生じ、天文16年(1546年)、三好軍によって芥川山城は囲まれ、同年6月26日、芥川山城は無血開城し三好長慶の手に落ちました。
永禄11年(1568年)9月28日、織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城します。織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えました。
その後、和田惟政は戦の功績により高槻城も与えられ、高槻城に入り家臣の高山友照に芥川山城を預けました。高槻城は息子の和田惟長が継ぎましたが、高山友照・重友父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となり、この頃芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われます。
ちなみに高山重友とはあの有名なキリシタン大名高山右近です。
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